親って何だろう2。

親って何だろう2。

三億円事件、東大紛争や日大紛争などの全共闘運動が激化した、1968年の夏に僕は生まれました。僕が生まれたその年、父は病床にいました。病名は癌。今よりも遥かに癌と言う病気が未知の領域にあった時代に、父は闘っていました。何も知らず生まれた僕は、病院の部屋でハイハイをし、わがままに泣きじゃくっていたんだと思います。父は専業主婦だった母に、今すぐに働くよう話したそうです。自分の死を意識していたいたのかも知れないし、とりあえずだったのかも知れない。それは僕には計り知ることができない、父親としての命令だったんだと思います。

 

その後、父は副作用を伴う可能性の高い試験的な臨床試験を受けました。どれだけ過酷だったかは、幼子の僕は知る由もありません。将来的な危険など顧みず、当時出来る事のすべてを医師団に任せた結果、奇跡的に父は病気を克服することになります。

 

僕が物心がついた頃、両親は働いていました。互いに個人事業主で、夕方に仕事へ出かけ夜中か朝方に帰宅する生活サイクルの中、僕は大きくなって来ました。子供ながらに物悲しかった事は、友達の家で遊んでいて、夕方になると夕飯の用意する包丁の音や、ぐつぐつ何かを煮ている音、夕飯のにおいがする事でした。友達の両親は夕方に帰宅し、家族団らん的な暮らしがあり、幼いながらもそんなことをとても羨ましく思っていました。

 

僕には5歳離れた姉がいて、いつも僕の面倒を見てくれました。夕飯をはじめ、何かあれば姉がいてくれたので何不自由はありませんでした。姉だって、僕がいなければ自由に遊ぶことができただろうし、僕よりも「両親がいてくれたら」と強く感じていたと思います。でも何か問題があると、いつも怒られるのも姉でしたし、逆の立場だったらどんなに辛かっただろうと想像するだけで恐ろしいほどです。それでも姉は僕にいつも優しくしてくれてたし、姉が作ってくれるサッポロ一番味噌ラーメンの味を忘れたことはないし、僕の大切な想い出になっています。

 

正直な話、当時の僕は親からの愛に飢えていて、愛されていたのかと不安に思っていました。遠足や運動会の時の友人のお弁当も羨ましかったし、『お母さんのご飯がまずい!』とか、悪口を言う友人を羨ましく思ってた。『作ってくれるだけましやんか!』と、大きな声で言いたかったけどぐっと堪えてもいました。仕事を優先して、僕の事は二の次になっていると、少し憎んでたかも知れません。

 

夜になると自分で布団を敷き、自分で布団を掛けゴロンとします。電気を消すのも自分。電気の紐を自分で引っ張る音の物悲しさと言ったら、心が張け裂けそうな毎日でした。それでも夜中に働いている両親の事を考えると不安で眠ることもできず、ただじっとオレンジ色の小さな電球を見つめて、元気で帰って来てくれる事を願いました。実際、毎晩朝方帰って来る親の足音を聞くまで、ほとんど寝ることが出きませんでした。帰宅後、僕の寝顔を親が見に来るので、目をじっと閉じて寝ているふりをしました。そんな複雑な子供時代だったんだと、それはそれで『まぁ、そんな感じやで…』と思っています。

 

時は経ち、今度は僕が親になる時が来ました。

 

最愛のかみさんとの間に、小桃がやって来ました。始めてのことでどぎまぎしてばかりですが、4ヶ月が経ちました。親譲りで眉毛も垂れ下がった、愛嬌のある赤ちゃんが生まれて来てくれました。生まれる前も、生まれた後も両親は小桃にべったりで、とっても可愛がってくれています。そして、僕が先にアメリカに帰国した後、かみさんと小桃が実家に行った時の写真を見て、何とも言えない気持ちになりました。

 

 

 

この写真を見て、僕が生まれた時の、幼少期の記憶を少し憶い出したような気がしました。
僕も全く同じように愛されていた事を。

 

僕がこれから味わうだろう、親としての楽しさや苦しさ。僕はじっくりと身をもって体感したいと思っています。きっと贅沢は出来ないかもしれないけれど、愛情を注がれて育った事に気が付いてくれる子供になってくれるといいなぁ、と思っています。今の僕のように。